伊福部昭『日本狂詩曲』+有馬礼子『交響曲第1番「沖縄」』
当初は昨秋に発売予定だったミッテンヴァルトの伊福部昭追悼盤の2枚目が春に延期ってことだったんですが、さらに今秋に延びてしまったみたいで残念です。6月にはこの前の『伊福部昭音楽祭』のライブ盤がキングの伊福部昭の芸術シリーズとして出てくるみたいですが、それまではということで昨年発売された単独タイトル以外のCDから落穂拾いということで……
伊福部先生が亡くなられた直後に真っ先に追悼盤と題打って出て来たのがこのアルバム。もちろん、元々は先生の存命中から発売予定になってたもので、ちょうどジャケットの見本が出来た頃に亡くなられたという話です。
有馬礼子は以前、日本コロムビアの学芸部にいて、その頃にレコード化しようと録音したのがこの『日本狂詩曲』で、それ以来お蔵入りになっていたのを、自作曲のCD化と抱き合わせてCD化しようと掘り出してきたというのが今回の音源らしいですね。
録音は今は無き赤坂のコロムビア第1スタジオとのこと。以前に1度、名匠宮川組による『宇宙戦艦ヤマト』のプレミアムライブで入ったことがある場所ですが、『宇宙戦艦ヤマト』の数々の名曲が生まれたのもこのスタジオであり、このスタジオで最後に録音されたのが宮川彬良と平原まことによる『アコースティックヤマト』だったとの話で、個人的には非常に親しみのあるスタジオです。
プレミアムライブの時はスタジオの半分ぐらいはパイプイスを並べて客席になってたので狭く感じましたが、本来なら全体が演奏用の部屋だから小さなオーケストラぐらいは平気ではいるんでしょうね。
収録曲は次の通りです。
伊福部昭『日本狂詩曲』
指揮:若杉弘 、演奏:読売日本交響楽団
01. 第一楽章 夜曲
02. 第二楽章 祭り
有馬礼子『交響曲第1番「沖縄」』
指揮:内藤彰、東京ニューシティ管弦楽団
03. 第一楽章 宮古
04. 第二楽章 八重山
05. 第三楽章 首里
伊福部先生は今さら紹介するまでもありませんから、有馬礼子について。東京音大出身で一時期、コロムビアの学芸部にいた頃にここに収録されてる『日本狂詩曲』の録音を手掛けたらしいというのは前述の通り。
その後、東京音大の助教授の時に伊福部先生が学長としてやってきたので、何かと付き添う間に教えを受けたということらしいです。ここに収録されてる『交響曲第1番「沖縄」』以外にも沖縄に関する曲を多く手掛けてライフワークとされてるらしいですが、その辺はよくわかりません。
当然ながら、このCDで初めて名前を目にした人です。
では、曲を聴いていきましょう。
伊福部昭『日本狂詩曲』
今さらいうまでもありませんが、チェレプニン賞を受賞によって伊福部先生の人生を大いに変えた作品です。
ところが、国内の反応は散々で、日本の恥だから応募は取りやめにさせろとか言われたり、コンサートでの国内初演は作曲から40年以上も経った1980年代に入ってからだったり……現在ではコンサートの機会もも数多くCDも手元にあるだけですでに10枚近くは出てるようですが、以前の音壇における伊福部先生の冷遇振りが目に見えるようです。
有馬礼子の手掛けたこの演奏は1967年の録音。ライナーには後の伊福部ブームに先立つこの録音がレコード化されていたらというようなことが書かれていますが、実はこれ以前に録音されてレコード化されたものがあるので、この録音が最古というわけではありません。そっちの方は割と早くからCD化もされていて、後にユーメックスやフォンテックが伊福部作品をシリーズで出し始める以前には貴重な1枚でした。
第一楽章 夜曲
ヴィオラの哀愁漂うソロで始まるレクイエム風の曲。レクイエムと言っても西洋風のものじゃなくて、盆の送り火を送る寂しげなながしの音楽って感じです。ヴィオラから始まる曲ってのもちょっと珍しいですけど、耳だけじゃちょっとチェロと区別が付き難いですね。どっちにしろバイオリンやフルートで始まるような普通の曲とは違った印象をまず受けてしまいます。
そのヴィオラにフルートやピアノが加わってきてだんだん厚みが加わってくる感じ。ピアノはここではアクセントをつけるだけに使われてる感じで、それに気付かないとピアノが入ってることすら見落としてしまうようです。
フルートとストリングスによるゆったりとしたフレーズが続いた後、やがてリズミカルな土俗的な踊りの旋律が現れ、ストリングスと哀愁的なフルートの調べが奏でられた後、ゆっくりとスローダウンしたフルートのソロでフェードアウトするように終わります。
第二楽章 祭り
打楽器のリズムに乗ったクラリネットによる祭囃子風のメロディーで始まります。いかにも伊福部昭という旋律なので、最初のフレーズを聴いただけでもゾクゾクとしてくるのが伊福部ファンですが、初期の作品ですでにこういうスタイルを確立していたというのが驚きです。
一斉に鳴り始めるオーケストラでいったん盛り上がった後、クラリネットの旋律とブラスの反駁の掛け合いが繰り返されます。そして再びオーケストラが盛り上がった後、これまでクラリネットが奏でていた旋律をブラスが奏で始めたと思うと、逆に反駁部分を今度は木管が奏で始めるという展開です。
中盤以降はほとんど同じフレーズを執拗に繰り返すというオスティナートの手法が、やはりこんな初期の作品から始まってるのかと感嘆するほかはありません。
終盤の盛り上がりになると、ここぞとばかりに鳴り始めるピッコロも、『シンフォニア・タプカーラ』第3楽章の終盤にも見られる部分ですが、ここでピッコロを出してきてるのはオーケストラの中ではもっとも高音域を奏でる楽器なので、オーケストラが一斉に鳴ってる時でも音が聞き取りやすいからなんでしょうね。
スタジオ録音と言っても大規模なオーケストラ演奏は貸切のホールで録音されることが多いんですが、これはコンサートホールとは違う文字通りのレコーディングスタジオでの録音なので、ホールでの演奏とは音の聞こえ方が微妙に違ってるのかも知れません。別にパート別の録音をしたってわけじゃないんでしょうけど、他の録音と比べると、割と個々の楽器の音がくっきり聴こえる感じがしますね。
有馬礼子『交響曲第1番「沖縄」』
交響曲と題打ってますが、元々は交響詩として作曲された第1楽章、第2楽章に新作の第3楽章を合わせて3楽章構成としたもののようです。
2004年の初演版の収録とのことで、『日本狂詩曲』とは40年近くも違いますが、さすがにそれだけ録音期日の離れた作曲者も演奏者も違う演奏をカップリングしたアルバムというのも珍しいような気がします。
第一楽章 宮古
どこか気だるさを感じるトランペットのファンファーレ。フルートによる沖縄風の旋律が現れ、不協和音のブラスによる騒がしい展開。沖縄の民族音楽風のモチーフを使いつつも現代音楽的な不協和音の展開がメインのようです。
伊福部先生の『日本狂詩曲』の後に続けてこの曲を聴くと、伊福部音楽が続く『ゴジラ』シリーズのオムニバス盤の中でいきなり佐藤勝の『ゴジラ対メカゴジラ』のタイトル曲が掛かってきたような感じがします。
けっこうブラスを派手に使ってるようだから、もうちょっと華やかに聴こえても良い気がするんだけど、そうじゃないのは曲がどことなく古臭く感じてしまうからですね。2004年(元の交響詩としては2002年?)の作品に古臭いも何も無いだろうって話はありますが、なんか手法的に20世紀の前衛的なものの影響が残ってるからのような気がします。
第二楽章 八重山
シンバルの乱打から華やかなブラスのファンファーレで始まる曲。チューバを中心とした重低音がリズムをリードしてるのが特徴で、スピーディーなストリングスが続きます。序盤では民俗音楽風のモチーフは使われず、普通に南の島のイメージそのもので曲が展開されてる感じです。
不協和音主体のバイオリンソロのフレーズの後、ようやく民族音楽のモチーフが奏でられ、ブラス主体に盛り上がっていきます。(宮古と八重山の違いなのか、第一楽章のモチーフとは異なる感じです)
ややゆったりとしたワルツ風の展開の後、土俗的な踊りのリズムが現れ、ここで一瞬だけ第一楽章の民族音楽のモチーフが現れます。第一楽章ほどの気だるさは感じないけど、やはり似たようなイメージで曲は展開していきます。
ブラスがアップテンポに盛り上がり、オーケストラヒットを何発か続けて終曲です。
第三楽章 首里
やや尖った感じのブラスのファンファーレに、ややスローダウン気味のストリングスのフレーズが続きます。
気だるいブラスのファンファーレが続いた後、ゆっくりとしたマーチ風のリズムで展開されるブラスとストリングス。バイオリンソロによるフレーズとやや弱めのブラスの掛け合いの後、小刻みでリズミカルなピッコロの調べが続きます。
ストリングスで徐々に奏でられていく民族風の旋律。カスタネットと気だるいブラスに、ストリングスのスタッカート。ブラスとティンパニーで華々しく盛り上がる民族音楽風の旋律……というより、第一楽章や第二楽章とも違ってユンタ風の旋律ですね。
カスタネットの連打の後、ストリングスの静かな調べが続いた後、ブラスが絡んできて盛り上がって終わります。
☆ ☆ ☆
う~ん、何度聞いても『沖縄』の方が『日本狂詩曲』より遥かに古臭く感じてしまいます。別に沖縄の民族音楽の素材が古臭いとかいうのでないのは、例えば同じ沖縄のモチーフを使った佐藤勝の『ゴジラ対メカゴジラ』のタイトル曲を聴いてもここまで古くは感じません。作曲法というかオーケストレーションの手法が古いような気がします。
そんなこと言えば、伊福部昭なんてもっと古臭いんじゃないかって言われそうですけど、伊福部先生の音楽は時代の移り変わりなんかとはずっと超越した世界にあって、ベートーベンやモーツァルトの音楽がけっして古臭くないのと同様、すでに普遍性を手にしてるように思います。そうじゃない人が流行り廃りを意識した手法で作ったりすると、現在ではあっという間に陳腐化してしまうんですね。
冒頭のどことなくルーズに聴こえるファンファーレも、沖縄の音階を用いた音だといえばそうかも知れませんが、その表現方法が現代音楽的な不協和音だとしたら。沖縄の音としての普遍性よりも現代音楽としての一時性に支配されてしまいます。
このルーズに聴こえるファンファーレで思い出したのが、『ゴジラ対ヘドラ』の眞鍋理一郎の音楽。どうも日本の現代音楽作家はトランペットをパンパカパーンと吹けば軍隊ラッパでも連想して避けようとするのか、ファ~ンファ~ンと吹かせようとするきらいがあるみたいですか、それはさておき。昭和のゴジラ映画の音楽を聴いていくと、伊福部先生の音楽はいまなお色褪せない魅力を秘めていて、佐藤勝の音楽もけっして古さは感じないのですが、それに比べると眞鍋理一郎の音楽は完全に昔の音楽って感じがします。別に『ゴジラ対ヘドラ』がシリーズ後期の子供向けの作品だから手抜きをしたってわけじゃないんでしょうけど、トランペットのファ~ンファ~ンというのは、そればかりが連続すると古臭く感じるんですね。
それに比べると伊福部先生なんかは誰がどう言おうとパンパカパーンで譲らない人だから、音が鮮烈に研ぎ澄まされてて、けっして古さを感じないように思います。
(発売元:日本ウエストミンスター JXCC-1011 2006.04.19)
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